アズデザイン,広島県福山市,写真で綴る写真集,ポストカードの制作,ポスターの制作,パンフレットの制作,チラシの制作,画集の制作,結婚写真の制作,プログラムの制作,チケットの制作.古い写真の修整,修復,遺影写真の制作,平和美術展,
( 神 辺 城 に つ い て 思 う )
元和5年(1619)水野勝成が神辺城入城前、天文7年(1538~1600)の間に大内氏(長府)・尼子氏(山陰)・杉原氏(備後)・毛利氏(広島)の各氏が(安土桃山時代)神辺城を巡り合戦の時代、山頂には立派な櫓が建ち並び平地には掘りを巡らした武家屋敷が有り、そして福島時代の約16年間のあいだ、近代的な増築・築城が行われても不思議でないと思う。阿部藩初期時代に書かれた(備陽六群志)の記録にもとづき当時福山城に移築された神辺城の復元写真で綴る福山城そして入り江などをスライドショウにて紹介します。
ス  ラ  イ  ド  紹  介
地積図による神辺城下復元略図
1995年修正神辺都市計画図を使用

神 辺 城・城 跡 発 掘 調 査 図  (1977) 昭 和 51 年 調 査
この発掘調査によると15の櫓のあったクルワ(平らな場所)の場所が発掘されています。1,500年代(尼子・大内・山名・杉原・毛利時代)そして、山頂に は多くの櫓がありこの紅葉山の下には立派な武家屋敷と櫓の一部が存在していました、歴史資料館の中に尼子の紋章の入った鬼瓦や約1Mの鯱鉾が元掘りの後か ら出土しています。歴代の城主は平時のときは下の屋敷にて生活をし非常時には上の城にて敵を迎えていたのだと思われる。紅葉山(上部)の櫓後の(クルワ) から(クルワ)までの距離は約200Mを示します。
 山 城 神 辺 城 想 像 図
昼間の神辺城
夕暮れの神辺城
月夜の神辺城


南北朝時代に現在の場所から北東約700mに位置する「古城山」にあったと考えられており、建武の年 (1335)年に朝山次郎左衛門尉景連が築城して、1401年に山名氏が城主そして神辺地方を平定し、現在の位置(黄葉山)にあるものは、室町時代の1443年(嘉吉3年)に山名氏よって築かれたのが始まりと思われる。その後尼子氏と大内氏との戦いで天文11年(1542)尼子氏が勝利し傘下におさめて19年間の間に本格的な山城の構築が行われたものと思われる。その時代の尼子の紋章の鬼瓦が出土し、また約1Mの鯱鉾が当時の外堀の中から出土しています、したがって当時立派な櫓と武家屋敷が出来ています。(この現物は神辺歴史民族資料館にて展示しています。)その後、1544(天文13)年に毛利元就が部下の功績を褒めるために出した感謝状には「固屋口の合戦」という言葉が出てきます。現在の県立神辺高等学校周辺は地元では「こやの内」と呼ばれており、この辺りにあった武家屋敷を中心に激しい6年間の戦いのすえ毛利が勝利し毛利元康が城主として神辺城に入城する。
毛利時代・福島時代の約30年間のあいだ、近代的な増築・築城が行われても不思議でないと思う。元和5年(1619)水野勝成が神辺城に、入城し福山城築城にあたり神辺城からの移築と京都の伏見城から移築され(1622年)日本最後の本格的な築城が完成し当時10万石の入封ながら、幕府の威信を掛け、西国の外様監視目的のため30万石相当の福山城が完成しました。

(このように歴史ある神辺城跡移築の福山城の文化遺産を大切にしましょう)

(  福 山 城 に 移 築 の 記 述 が さ れ た 文 献 )
備陽六郡志によれば、福山城の構築につき次のようにあげており、如何に多くの建物が福山城に移されているかを思わしめる。
・櫛形櫓   (8間4尺×4間) 2層 神辺城より来、樫番所の前に有り(伏見櫓南下)。
・神辺一番櫓 (7間×4間半) 3層 神辺城より来、右番所の後にし南角に有、神社方帳面入。
・神辺二番櫓 (5間×4間) 2層 神辺城より来、西の方に有。
・神辺三番櫓 (4間×6間) 2層 神辺城より来、西の方に有。
・神辺四番櫓 (4間×2間) 2層 神辺城より来、左何れも西の方に有。
・人質櫓   (6間×3間) 2層 神辺城より来、乾の方に有。
・荒布櫓   (5間×4間) 2層 神辺城より来、岬の方に有。
・鹿尾菜櫓  (4間×3間) 2層 神辺城より来、東坂御門の上に有。
・玉櫓    (3間2尺×5間5尺) 3層 天守閣の後、東の角に有。
・塩櫓    (5間半×3間半) 2層 神辺城より来、天守閣の後、西の角に有り
・鬼門櫓   (5間×4間) 3層 神辺城より来、東北の隅に有。
・勘定所   大手門の内,鉄門の向いに有(今の福山駅前)水野御代(三村右近・忠雅公(松平)
       御代 奥平吉平衛・当御代(阿部)内藤平居・神辺城大手門他(1615坪=地積?)

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神辺城から福山城に移築された立体図
下記の図は備陽六郡志を元に文献と立体図の櫓の位置を検証し色分けした神辺城櫓群です。
下記の色付きの配置図は神辺城から移築されたものです。
神辺城から移築されたとされる、これらの城郭(12の櫓)は主に西側に(神辺第一櫓・神辺第二櫓・神辺第三櫓・神辺第四櫓・人質櫓・荒布櫓・乾櫓)北側に(塩櫓・玉櫓・鬼門櫓)東側に(鹿尾菜櫓)南側に(櫛形櫓)と南側の堀の角に二階櫓・舟櫓、そして多くの武家屋敷が配置され廃藩置県の影響のもと、福山城の場合明治6年頃取り壊しが行われ、その後神辺城櫓の勇姿を見る事が出来ません。特に櫛形櫓は、慶応元年(1865年)11月、第二次長州征伐の準備に際して焼失しており、明治初年の福山城南側全景の中に見る事が出来ません。
福山城が(武家諸法度-1614年)新築禁止令の後に何故福山城の築城が許されたか?。私は福山城築城に関して幕府が絡んでいる事に気きずき、時代背景を調べました。※ (関ヶ原の戦い - 1600年)徳川派が勝利 ※ (1600年~1614年 - 徳川派・豊臣派の不安定時代) ※ (慶長10年(1605年)4月16日、家康は将軍職を辞職し朝廷に嫡男・秀忠への将軍宣言し、将軍職はその後「徳川氏が世襲していく」ことを天下に示した。しかし、家康は改めて豊臣氏の権威や脅威が無視できないものであることを改めて実感する。 ※ (慶長19年(1614年)大坂冬の陣・大坂夏の陣によって大坂城は落城した。5月8日、秀頼と淀殿、その側近らは勝永の介錯により自害、勝永自身も自害した。したがって、豊臣家は事実上滅亡した。※ (元和元年(1615年)、「家康は武家諸法度制定」( 城の増改築は幕府の許可を必要とする)・(城の新築禁止令など) ※(元和2年(1616年)家康は駿府城において薨去した。享年75。) ※ 二代将軍秀忠の命により(1616年~1619年まだ西の外様である毛利・池田藩の動きを見据え、もしもの事を考え、武家諸法度制定が有りながら特例として水野勝成を1619年に神辺城に入城させ当時として破格な大きさの城を幕府は福山築城を許可をしたのである。同年、広島城の福島正則は武家諸法度にふれて改易になっています。
この作品は今から33年頃前の1978年頃私が描いた作品で当時福山城関係の写真等を古本屋等で資料を集め当時描いた作品の中の1枚です。この場所は今リーデンローズの後地に日本火薬(染料)があり、入り江側の場所で石炭を運んでいる場所が現在のリーデンローズ南付近がその場所です。向かって左側の鳥居が見える場所は当時の住吉神社で現在2号線新町交番南側にある住吉スケアーです。その左向こうの橋が見えるのが木綿橋で今本通り界隈です。当時入り江は今駅前通りの駅前交番から東方面のNTT付近に入り江が有り第2堀と連結していました。満潮のときは水深約2メートル近くあり舟の出入りが有りました。水野勝成築城当初以降の川幅は狭い所は35メートル広い所では45メートル有り舟の往来が盛んでした。
(櫛形櫓にまつわる事実関係)
備陽六郡志によれば (8間尺×4間) 2層 神辺より来、樫番所の前に有り(伏見櫓の南下)と記録している。櫛形櫓は第二次長州征伐の準備に際して焼失しており、慶応元年(1865年)11月12日午後8時ごろ、櫛形櫓から作業を終えた藩士が引き上げたあと、原因は不明だが櫓内に保管された火薬に火が付いて、櫛形櫓が大音響と共に爆発し鑓櫓や鉄砲櫓と共に炎上する。福山城で櫓を失うのは、記録では築城後初めてのことである。櫛形櫓は明治以前に失われ図面なども残されていないため正確な形状はわかっておらず、備陽六郡志や江戸絵図などから推測されたものである。建物形状は備陽六郡志に記された縦横の面積比と江戸に描かれた絵図の面積比が類似しているのでほぼ間違いないと思われる。したがって明治以降、多くの写真の中にある櫓の有無を(廃藩置県時の櫓取り壊し・福山空襲時前後の櫓の有無状況確認)考慮すれば、写真が撮られた年代を読むことが出来ます。
江戸時代の絵図から見られる神辺城移築の櫓群!!
築城時の堀の遺構
第二堀の惣堀長 1,254間 2,282m
堀幅 15間 27m
深 2間 3.64m
堀の1辺の長さは約600mで総面積は360,000㎡の巨城に成ります。
この福山城の総面積は広島マツダスタジアムの16球場に相当します。

福山城について
・ 通称              久松城.葦陽城
・ 城郭構造        輪郭式平山城
・ 天守構造        複合式層塔型5重6階(1622年)(1966年RC造復興)
・ 築城主           水野勝成.築城年    1622年
・ 主な改修者     阿部氏
・ 主な城主        水野氏.松平氏.阿部氏
・ 廃城年           1874年
・ 遺構        櫓.門.鐘楼.石垣
・ 指定文化財   国の重要文化財(伏見櫓.筋鉄御門)国の史跡  福山市重要文化財(鐘楼)
・ 再建造物       
天守.月見櫓.筋鉄御門.御湯殿
 
(神辺城ルーツ の説明文)と(発掘調査図)は神辺町史から引用。

発掘された時、雁木があった舟櫓跡周辺 (2008年)
( 舟入りについて )
三の丸から外堀に浮かぶ船に乗るため堀まで階段が開かれていた。舟入は内枡形状に加え舟櫓と土塀が設置されるなど、舟入の防備としては全国の城郭でも特に厳重であった。明治初期になると櫓は取り壊され、1891年(明治24年)の山陽鉄道敷設により第一掘りは完全に埋められ福山駅前となった。大正2年両備軽便鉄道の駅舎建設の為東側の第二掘りの一部が埋め立てされ、その後南側の掘りが埋め立てられ、大正10年に西堀が埋め立てられ、大正13年には福山城の掘りは全てが消失しました。2008年の発掘調査により舟入を含めた櫓跡の石垣が出土された。この掘りは築城当時潮の干満の差を利用して船の出入りがあり満潮の時は2Mの水深の掘りだが、引き潮の時、掘りの水深が無くなるので後(時代不明)に掘りに通じた入り江に堤防を造り船は堀の中に入れなくなりました。この度発掘されたお水門は当時入り江から舟の往来していた雁木(舟付き場)のある貴重な文化財です。福山駅は全国でも珍しい城に囲まれた駅として現代・未来の人に残してほしかった。
※(現在福山駅前に当初の計画を変え地上に石崖が少し顔が出ています。注意して見て下さい)