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 3 - 参 勤 交 代 時 の 城 跡 黄 葉 山 と 神 辺 街 道 

 

 

 中国行程記 (今から240年前神辺城移築後の郭跡と神辺街道絵図)

  九代将軍徳川家重時代の参勤交代時に萩藩が描いた中国行程記の中に神辺絵図を発見しその中に神辺街道と黄葉山絵図

 の中に12の郭跡が表記されており、これでこの一級絵図と備陽六郡志の文献で神辺城の存在を確信しました。

 参勤交代時(1735年)の萩藩は海路にて大阪ー京都(淀川を利用)ー江戸(陸路)のコースで、約140年間の間、江戸途上して

 いました。やがて山陽道の宿泊施設が整備され萩藩は郡地理図師(有馬聡太)が描いた山陽道街道絵図が完成する。

 明和8年(1771)~安永5年(1776)の5年間ついやし山陽道絵図が完成する。それ以降萩藩はこの絵図によって参勤交代時

 の宿泊日程を決めていたようである。

 

 (神辺街道図)

 中国行程記の街道図の中に福山城主お茶屋・東本陣・西本陣の絵図に注目しました。この行程記が描かれた年代を1774

 年に仮定すると(1635~1774)その間は福山藩が宿泊施設をしたことになります。改めてお茶屋の絵図を見ると立派な門

 構えが見ることが出来ます。この絵図が描かれた当初は本陣とお茶屋は共存していた事になります。

 

 (下記の図天和3年(1683)安那郡川北村繪図)

 この絵図は5年前神辺より発見された貴重な資料です。参勤交代から48年後の神辺街道です。この絵図の中に本陣の姿

 はありません。したがって本陣が出来るまでは福山藩が(お茶屋)として参勤交代の宿泊施設として営んでいました。

 

 (その下の1820年頃に描かれた神辺街道絵図です)

 この絵図の中には(東本陣・西本陣)が描かれ(お茶屋)は役目すませ、描かれていません。このように絵図によって時代の

 変遷を読み取る事が出来ます。

 

 最下記 (神辺街道と神辺城跡)

 この絵図の中に廉塾の表記があります。廉塾の誕生は天明元年1781年 菅茶山は神辺に私学 (黄葉夕陽村舎) を開く。

 3人の個人名があります、この3人は 菅茶山の弟子です。

 この絵図の中で注目したいのは (札場) 三日市 ・(高札場) 七日市 があります。中国行程記の中に十日市と三日市の角に

 高札場がありました。この街道の距離で2場所に有るはずもなく七日市に移動したと考えられる。

 (高札場)の意味  

 福山藩の最も基本的な法令を書き記した木の札を掲示した施設である。設置場所は多くの人が往来する場所に定める。

 

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